元証券マンが「あれっ」と思ったこと

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あれっ、漱石が国家の介入を批判?

 

夏目漱石:国家の介入に対する批判 】

 


 先日読んだ「夏目漱石西田幾多郎ー共鳴する明治の精神」(小林敏明著、岩波新書)に、国家の介入に関する興味深い文章があった。
 以下は一部抜粋。

 


博士号拒否問題

 漱石が入院中のある日、留守宅に突然文部省から翌日学位を授与するから出頭するように、という通知が来る。妻の知らせでそれを知った漱石は、ただちに担当の専門学務局長福原鐐二郎宛に、学位を辞退したい旨を伝える。

 

 しかし、それと入れちがいに証書(学位記)が送られてきたので、それもすぐに返却するのだが、文部省側は、学位令には辞退した場合の処遇については明記されていないので、辞退を認めるわけにはいかないと主張する。他方漱石は、発令前に本人に打診があるならともかく、発令を以て初めて学位授与のことを知った以上、それ以前に辞退の旨を伝えることなどそもそも不可能である。また、学位令に辞退について明記されていないということは、逆に当事者に辞退する自由なり権限なりがあるはずだ、と主張して譲らない。

 


 彼にとってもっとも重んじられるべきは、何よりもまずひとりの人間の意志である。だから、これを抑圧するものは、たとえ政府といえども容認することはできない。ましてや、権力を笠に着てそれをおこなうなど許しがたい。漱石が文部省の杓子定規な対応に読み取ったのは、その権力の傲慢さである。

 


文芸院批判

 学問に対するこの姿勢はそのまま文芸に対する姿勢ともなる。博士問題があった年に政府が文芸院を設立して国による文芸の育成を図ったとき、漱石は「文芸委員は何をするか」という一文を発表して、この動きを厳しく批判している。その理由は、ほぼこういうことである。文芸の批判とか批評というのは、個々の作家たちが相互にやりあうもので、国家が介入すべき問題ではない。

 


 国家の介入は、すなわち「文芸の堕落」なのだ。弊害はこれにとどまらない。このような国家の干渉を許せば、文芸の発達を図るという美名のもとに「行政上に都合よき作物のみを奨励して、其他を圧迫する」危険性が生じる。

 

 そもそも文芸が進歩するのは、国が助成するからではない。「文芸院杯(など)と云う不自然な機関の助けを藉(か)りて無理に温室へ入れなくても、野生の儘で放って置けば、此先順当に発展する」。

 

 文芸院を設立するような金があるなら、むしろ毎月の雑誌に載っている一定の水準を満たした文芸作品に平等に保護金なり奨励金でも出したほうがよほどましである、といった調子である。こういう文芸感の根本にあるのは、博士辞退の動機と同じく、文芸というのはあくまで自由独立の精神をそなえた個人の営為であって、それに国家は干渉してはならないという反権力の信念である。

 


<感想>
 漱石の国家介入の批判を見習って、今日の日本学術会議の会員にも、そもそも年間10億円超の国家予算が割かれていること自体に疑問を呈して欲しい。

 

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