昨日、復興途上の熊本城のボランティアの方から、西南戦争直前の自焼説を聞いたが、個人的には、別の説に与したいと思った。
「熊本城の歴史」
https://castle.kumamoto-guide.jp/history/
明治10(1877)年2月におきた西南戦争で、熊本城は50日あまりにも及ぶ籠城戦の舞台となりました。
城内には熊本鎮台司令長官谷干城(たにたてき)率いる鎮台兵3500人が籠城して薩摩軍13000人と戦い、熊本城は近代戦を経験した城となり、また難攻不落の堅城であるということを名実ともに実証しましたが、開戦直前に天守と本丸御殿一帯が炎に包まれました。原因には放火・自焼などいくつかの説がありますが、いまだに特定はできていません。
幕末・維新の町を行く「熊本県熊本市 -熊本城と谷干城-」
http://www.saigoutakamori.sakura.ne.jp/kumamoto.htm
薩軍との戦端が開かれる直前の明治10(1877)年2月19日、熊本城内で原因不明の出火が起こり、天守閣などの建物が焼失する緊急事態が起こりました。
谷の落胆は非常に大きかったのですが、それでも彼は諦めず、獅子奮迅の働きで戦闘を指揮し、城内の兵士達を叱咤・激励し、薩軍に対し徹底抗戦の態度をとりました。
熊本城に籠城し、谷を中心として結束した熊本鎮台は、それから約50日間もの長き間、薩軍の激しい猛攻を耐え忍ぶことに!なります。
谷の軍人としての類稀なる資質、そして清正が作り上げた難攻不落の名城・熊本城。この二つの要素が重なりあい、そして一体となって、谷は薩軍の攻撃を完全に防ぎ、熊本城は史上最大の危機を乗り切ることが出来たのです。
薩軍の攻撃に耐え、ようやく新政府軍の援軍が熊本城に入城した際、谷は次のような歌を詠んでいます。
「石なれと 固く守りし かひありて けさ日の御旗 見るぞうれしき」
<感想>
明治9(1876)年11月に、旧土佐藩出身の熊本鎮台司令長官に任命された谷干城。その翌2月、兵力三倍強の薩軍に対して、難攻不落の熊本城での籠城戦を選んだ谷が自ら火を放ったとは考え難いように思われた・・・
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元証券マンが「あれっ」と思ったこと
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