【 昭和史の人間学 】
先日、「昭和史の人間学」(半藤一利著、文春文庫)を読んだ
以下は、同書からの一部抜粋(その4)
はじめに
良い例をあげれば、御前会議での鈴木貫太郎と昭和天皇の阿吽の呼吸がなければ太平洋戦争は確実に延びていたし、日本の被害は拡大していたでしょう。逆に、悪い例として歴史の「if」を言うなら、近衛文麿、伏見宮博恭王、東條英機、永野修身、松岡洋右らがあの時あのポジションに就いていなければ、日中戦争や太平洋戦争は起きなかったのかもしれません。
編集部
近衛文麿
「戦争の根本責任を負う者は、東條大将と近衛公爵」
戦争が終わった昭和20年11月28日、陸海軍省が全部なくなるとき、斎藤隆夫さんが演説をぶちまして、「今日の戦争の根本責任を負う者は、東條大将と近衛公爵、この二人であると私は思うのであります」とおっしゃいましたが、わたくしも同感です。これにもう一人、海軍の軍令部総長伏見宮殿下、と三人目をつけ加えておきたいのですが。
近衛さんは、巣鴨拘置所出頭の当日に毒を飲んで自殺をしました。それで死んだ直後に朝日新聞に、「日米交渉近衛公の手記」というのが連載されまして、これ、わたくしは当時読んだ覚えがあります。
「統帥権の問題は、政府には全然発言権なく」
――そんなことなかったですよね。
「政府と統師部との両方を抑え得るものは、陛下ただ御一人である、しかるに陛下が消極的であらせられる事は、平時には結構であるが、和戦何れかというが如き国家生死の関頭に立った場合には障碍が起り得る場合なしとしない」
これが、近衛さんの統師権問題に関する考え方だったんです。しかも、自分が積極的であったことなど完全に忘れてしまっているようです。
片や傲慢、片や優柔不断、
最悪のトップコンビ
統帥部の総長を兼任するという前代未聞の非常手段
(1944年)2月18日、"日本の真珠湾"トラック島は米機動部隊の奇襲をうけて壊滅。この異常ともいえる事態に東條・嶋田のコンビがとった方策は、統師部の総長を兼任するという前代未聞の非常手段であった。政戦略の独裁である。
およそ軍政と軍令とは混淆してはならないとするのは、陸海軍ともに建軍いらいの本義である。それをこのコンビは踏み破ろうとする。「難局に直面し、軍政と統帥の摩擦・矛盾が戦争遂行を大いに妨げている。政治と軍事が乖離していては戦争はできない。それ故の兼任」と、東條も嶋田もそう説明したが、結局は同一人に過大な権力を集中することになる。それをあえて二人は強行しようとした。
半藤が海軍でもっとも責任が重いと断ずる皇族軍人
親独派で日米開戦論者だった皇族総長には誰も逆らえなかった
私が海軍でもっとも責任が重いと思うのは、軍令部総長だった伏見宮博恭王です。もとは及川(古志郎)も嶋田(繁太郎)も戦争反対の立場だったのですが、この親独派で日米開戦論者だった皇族総長の意向にはとても逆らえなかった。
実は昭和天皇も、日米開戦を推し進める伏見宮の動きを懸念していて、三国同盟締結の直後に総長を交代させたいと考えるのです。しかし、相手は大正天皇より四歳年上ですから、直接は言えない。そこで侍従武官長を通して、海軍に意向を伝えるんですよ。
そうして昭和十六年の春に、連合艦隊司令長官や台湾総督などを歴任した小林躋造、元首相の岡田啓介、そして米内光政の三人が伏見宮降ろしに動き出すのです。
軍令部総長には米内が就き、及川古志郎は連合艦隊司令長官に回し、後任の海相は山本五十六にする。次官に井上成美を呼ぶという布陣で、戦争に反対しようという構想をたてた。ところが猫の首に鈴をつけにいく人がいない。モタモタしている間に不穏な空気を察した伏見宮が昭和16年4月に自ら辞めるんですが、このとき後任に永野修身を指名したのです。
開戦か非戦かというギリギリのところで、及川、嶋田、そして軍令部総長の永野と、無責任きわまるイエスマンをトップにそろえた伏見宮の責任はもっと問われてしかるべきです。伏見宮は昭和21年8月に亡くなっていますが、もしも存存命で、開戦時に軍令部総長だったら、東京裁判で危なかったでしょうね。
(「新・東京裁判――決断しないリーダー、暴走する組織」)
<感想>
昭和天皇でさえ直接言えない伏見宮総長がいなければ、日米開戦も避けられたかもしれないと思うと残念でならない
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元証券マンが「あれっ」と思ったこと
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