元証券マンが「あれっ」と思ったこと

元証券マンが「あれっ」と思ったことをたまに書きます。

あれっ、太宰府にまつわる歴史?

 

太宰府天満宮:道真公の左遷 】

 


 先週末、太宰府天満宮、菅公歴史館、九州国立博物館に行ってきた。

 以下は、ON THE TRIPの「太宰府天満宮とまち歩き」からの一部抜粋。
https://on-the-trip.com/

 


左遷された道真のその後とは?

左遷される直前まで、道真は歴史書の編纂を進めていた。漢詩をあやつり、外交官としても外国文化に接していた道真は、だからこそ、外国の文化を取り入れるだけではなく、日本人のアイデンティティをたいせつにしなければならないと考えたのだろうか。いずれにせよ、文化の礎を作り、日本独自の文化の発展に尽くしていた。

 

ところが、急転直下。身に覚えのない罪によって大宰府に左遷されることになり、家族との十分な別れも許されないまま京都を離れることなる。そして、大宰府では衣食もままならない生活を強いられながらも、皇室の安泰と国家の平安を願い、また自身の潔白を祈りつつも誠の心を尽くした。しかし、903年。ついに京都に帰ることなく59歳でその生涯を終えた。

 

その後、朝廷でも無実が証明され、時代を経るにつれて、道真の卓越した才能や誠を買いた清廉潔自な人柄を崇める人が増えていく。そして、1100年以上の時が流れた現代でも「学問の神様」「文化の神様」「誠心の神様」として多くの人々からの信仰を集めている。

 


本八幡宮の梅花

西暦730年の正月。大伴旅人の邸宅で「梅花の宴」が行われた。

 

当時、旅人の家には中国から伝わったばかりの珍しい木が植えられていた。「梅」である。当時の日本に桜はあっても梅はない。奈良の都でも滅多にお目にかかれない梅の木が、いよいよ花を咲かせるのだ。ならば、みんなで花見をしながら歌を詠もう。

 

そうして、九州各地から腕利きの32人が集まった。

序文にはこう書かれている。

 

『初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉
を披き、蘭は珮後の香を薫す』

 

そう、日本の「令和」という元号の由来になった言葉だ。この序文に続いて32人のメンバーが順番に梅をテーマにした和歌を詠んでいく。郷愁を誘う歌も多く、奈良から遠く離れた地にいる境遇をみんなで分かちあおうとしたのだろう。だからこそ、こう言われるのだ。「梅花の宴は太宰府の先進性と辺境性があってこそ花開いた文化である」と。

 

本八幡宮は旅人の邸宅があった場所の候補地のひとつ。梅花の宴はこの場所でおこなわれたのかもしれない。

 


ご参考)令和発祥の都、太宰府市
https://www.city.dazaifu.lg.jp/site/reiwa/11391.html

 


<感想>
 663年朝鮮半島の「白村江の戦い」で唐・新羅軍に大敗後、防衛施設としての「太宰府」が設置された。
 730年の「梅花の宴」や901年に左大臣藤原時平に左遷された菅原道真公(右大臣)に思いを馳せると、国立博物館がこの地に開館した理由も分かったような気がした。

 

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