元証券マンが「あれっ」と思ったこと

元証券マンが「あれっ」と思ったことをたまに書きます。

あれっ、江藤淳の友からの弔辞?


石原慎太郎江藤淳への弔辞 】

 


 先日、江藤淳著「幼年時代」(文藝春秋)を読んだ。
 以下は、一部抜粋。  

 


さらば、友よ、江藤よ!   石原慎太郎

 

思えば、敵機来襲の警戒警報で命令された下校の途中警報が突然空襲警報に変わり、変わったとたん頭上に来襲した敵の艦載機の機銃掃射に逃げまどったわずか半年ながらの生と死に晒された子供としての戦争体験と、その末の敗戦。

一夜明ければ、かつての鬼畜米英が民主主義を説く救世の師匠とあがめられる価値観の豹変に子供としても唖然とさせられ、何か基本的根源的なものがすり替えられごまかされているのではないかという感慨のもとに、これこそが新しいのだと自称する教育の手に一方的に陥れられて以来、私たちは真の価値とはいった何なのかを自分自身で考えざるを得ない状況になぶられてきた。

そしてその最も真摯なる実践者が江藤淳だったと思う。

いかなるアプリオリにも支配されず、何が人間にとって、日本人にとって、この国家にとって最もなる真実であり、定め、何こそが暴かれるべきものであるのかを彼はその鋭い感性によって探し出して定め、訴え、唱え、説いてきた。


日本の無条件降伏という強引にしつらえられた虚構への告発や、その下に行われた徹底した日本の解体のための施策たる戦後のGHQによる検閲への告発、その呪縛から未だに自らを解き放つことの出来ずにいる日本の言論の資質への批判。それらは彼自身の肉と血の内に溶け込んで在る、誰よりも彼自身が強く意識せざる得ない国家に関わる主題としてあったのだ。

それに抗しきれずに思わずも強くものをいうことほど、言論を操る人間としての誠実が他にあるだろうか。


そうした彼の言論の活動を支えていたのが、子どもを持たぬ夫婦故にも彼が容易に、幼くして死に別れた母親への思慕を代行していた慶子夫人だった。

そして彼女の死はすなわち、文士としての江藤の人生を決定的に支えていたものの喪失だった。


あの日の午後関東一円を襲った雷雨の激しさは並みのものではなかった。

同じ鎌倉に住んでいつも江藤と接していた私たちの共通の友人だった前の東大教授でインドの歴史を教えてい、定年引退の後江藤を同じ大正大学に誘って招いた辛島昇が密葬の日、隣の席で、
「あの雨さえなかったらなあーー」
とつぶやくようにいっていたが、私もそんな気がしている。

巨きな喪失の後の痛みの中での放心の折々、時としては死を願ったりもして激しく揺らぎながら耐えてきていた、身寄りも無く他に失うものは自らしかないような孤独に老いた男にとって、あの久しぶりの天変地異は通り魔のように彼を引き裂き、死に向かって誘い追い落としたに違いない。

彼を失った今になって思えば、彼の残した遺書が言葉少なにいかに毅然たるものであろうと、その自殺はトリスタンとイゾルデの順を違えた、典型的な妻恋いの末の後追い心中でしかない。

それを他にどう脚色も説明も出来はしまいし、それはその限りで痛ましくも、美しい。

それは彼の自殺が彼の言葉たちと同じように一貫してあくまで彼の個人的な、極めて私的な主題によるものだったが故に他なるまい。

そして、美しい限りで、それは、我々が失ったものの大きさをまったく違う次元で十分に贖ってくれるはずではないか。
彼から、「諸君よ、これを諒とせられよ」と請われて、彼を愛した者たちとして、何を拒むことが出来るだろうか。

 


心身の不自由は進み、病苦は耐え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。
平成十一年七月二十一日   江藤淳

 


<感想>
石原慎太郎の友、江藤淳への哀悼のことば。
故人に対する心ある一語一語が胸に刺さる。

 

----------------------------------------------------------------------
元証券マンが「あれっ」と思ったこと
発行者HP http://tsuru1.blog.fc2.com/
Twitter https://mobile.twitter.com/tsuruichipooh
----------------------------------------------------------------------