先週、いかを食しに、佐賀県唐津市呼子町に行ってきた。
http://www.kawatarou.jp/sp/yobuko/
待ち時間が3時間ほどあったため、近くの名護屋城跡に立ち寄ってみた。
以下は、名護屋城博物館等のWebサイトからの一部抜群。
名護屋城跡
https://saga-museum.jp/nagoya/nagoya-castle/nagoya.html
「文禄・慶長の役」の拠点として秀吉も1年あまり在陣しました。
築城は1591(天正19)年に始まり、諸大名による割普請(わりぶしん)によってわずか数ヶ月で完成したといわれています。
江戸時代の初期に破却(はきゃく)されたと考えられ、石垣が広範囲にわたって崩されています。
建物は現存していませんが、発掘調査を行い、建物の遺構や出土遺物について研究を進めています。
名護屋城・陣跡の概要
https://saga-museum.jp/nagoya/nagoya-castle/
名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城です。
1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となりました。
城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇りました。
周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集ったとされています。
現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています。
豊臣秀吉が築いた「幻の名城」名護屋城
https://shirobito.jp/article/590
慶長3年(1598)、志半ばにして豊臣秀吉が亡くなると戦いは終結。朝鮮半島から兵は撤退し、名護屋城も廃城となってしまいます。築城から約7年の短期間しか使われなかった、まさに豊臣秀吉が築いた「幻の名城」といえます。
晩年の豊臣秀吉のイヤな性格がよくわかる…朝鮮出兵の前線基地「肥前名護屋城」に作らせた意外な施設
https://president.jp/articles/-/74641?page=2
城の周囲には広大な城下町が整備され、名護屋の人口は最盛期には20万にもおよび、京をもしのぐ賑わいだったという。事実、一時的にここは日本の政治、経済の中心になったのである。
朝鮮半島との交流の歴史を展示
https://www.asobo-saga.jp/articles/detail/6fd81283-f782-4c92-8a76-32df2c893034
侵攻の中、朝鮮半島から多くの陶工が日本で連れてこられました。諸大名お抱えとなった彼らの手によって、唐津焼や有田焼などが誕生し、日本の焼き物文化は画期的な飛躍をとげることとなります。このように日本に移入された文化はその後、近世の日本に大きな影響を与えていきます。
<感想>
「文禄・慶長の役」の拠点として秀吉も1年あまり在陣した名護屋城。
大阪城に次ぐ規模の20万人を超える都市がたった7年で消え失せたのは、朝鮮出兵への多大な負担を強いられた意趣返しのように見える。
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元証券マンが「あれっ」と思ったこと
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