元証券マンが「あれっ」と思ったこと

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あれっ、明治初の女子留学生の生き様?

 

大山捨松:明治初の女子留学生 】

 


 先日、NHK BSで「“明治”に挑んだ女性 〜“鹿鳴館の華”大山捨松の実像〜」を見た。
https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/G6NJXQWZJK/
 以下は、「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松 日本人初の女子留学生」(久野明子著、中央公論社)からの一部抜粋。

 


会津藩の悲劇
「おばあ様は礼儀作法にとても厳しい方だったよ」私の父が捨松の思い出話をするときは、必ずこのせりふから始まる。捨松にとってどんなに可愛い孫でも「ならぬことはなりませぬ」だったのであろう。暴れん坊でいたずらっ子だった父も捨松の前に出ると自然と身が引きしまったという。

 


岩倉使節団と女子留学生
明治四年十月、開拓使は直ちに女子留学生の募集を行った。留学期間は十年、往復の旅費、学費、生活費はいっさい官費で支払われ、その上年間八百ドルの小遣いを支給するというものであった。当時一ドルが訳一円、銀座の土地一坪が五円で買えたことを考えると、十歳前後の小娘がもらう小遣いとしては、八百ドルは法外な額であった。しかし応募者は一人も現れなかった。

岩倉使節団の出発の時期が間近かにせまってきており、あわてた開拓使は第二次募集を行った。そして、やっと集まったのが次の五人の娘たちであった。

五人の娘達に共通しているところは、五人共明治維新で敗者になった旧幕臣の娘という点である。維新後は、親たちはみな薩長閥の色濃い新政府の下級官吏として、日の当たらない日陰者の生活をしいられていた。だから五人の親たちには、近い将来に自分たちが見てきた西洋の学問や技術を日本が必要とする時が必ずくる、それまでに娘をアメリカで教育させて薩長の成り上がり者達を見返してやろうという強い思いがあったのである。

 


失意の日々
男子留学生の場合には、外国帰りというだけで大学や官庁に相応な仕事がすぐに与えられ、エリートの道が保証されたのに、女性である捨松と梅子の将来については国は具体的な計画は何一つ持っていなかった。十年間にわたってアメリカの教育を受け成長した捨松達と黒田清隆森有礼が考えていた当初の発想との間にすでに大きな隔たりが生じてきていたいのである。
捨松は日本政府のいい加減な態度にすっかり失望してしまった。

捨松がアメリカで知り合った女性のほとんどが高等教育を受け、自分の意志で自分の人生を歩んでいる人達ばかりであったので、結婚していない女性が社会的にも経済的にも一人前に扱われない日本の社会の風潮にがまんがならなかった。何よりも落胆したのは、外国へまで留学してこれからの新しい日本のリーダーとなる男性でさせも、帰国すると自我もなにも持たない少女のような娘と結婚してしまうことであった。

 


あとがき
日本には捨松に関する資料は非常に少なく、それも限られた内容ばかりで、間違ったものや誤解されているものも少なくない。また、捨松はよく津田梅子と比較され、国費留学生だったにもかかわらず、余り際立った活躍をしなかったなどと言われることもある。捨松が、大山巌との結婚で日本の上流社会に身を置いたため、華やかな一面にだけにライトをあてられ、アメリカでの体験を生かして実行した捨松ならではのユニークな活躍、特に日米親善に果たした役割については余りしられていないからかもしれない。

 


ご参考)『太平洋を越えた日米女性たちの誓い』~大山捨松 津田梅子 アリス・ベーコン~
https://www.enopo.jp/2017-08-26-14-18-45/mobile-life-people/26855-2020-01-23-23-54-49.html

 


<感想>
 会津藩出身の山川さきが「捨てるつもりで待つ」と名を「捨松」に改名され、明治維新後初の女子留学生となって、帰国後に薩摩藩士の大山巌の後妻となる。
 大山捨松のひ孫にあたる久野明子氏のお陰で過去が明らかになったことに心打たれた。

 

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