元証券マンが「あれっ」と思ったこと

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あれっ、五稜郭の箱館奉行所が140年振りに復元?

 

五稜郭箱館奉行所の短い歴史⇒140年振りの復元 】

 


 2020/10/8、大学4年生(車で4人、夜中に東北自動車道を交代で運転⇒朝、青函連絡船で移動)の夏以来、GoToを利用した45年振りの函館。五稜郭には初めて来た。

 以下は、五稜郭タワーのHPからの一部抜粋。
 https://www.goryokaku-tower.co.jp/history/

 


1853 アメリカ合衆国からペリー艦隊が来航

 

1854 「日米和親条約」締結。伊豆の下田と蝦夷地の箱館(江戸時代まで、「函館」は「箱館」と表記)を「開港場」とし、同年、アメリカに続いてイギリス、ロシアとも同様の和親条約を締結

 

1857 役所築造工事着工

 

1864 箱館山の山麓市街地にある旧役所が移転。「箱館御役所」(通称「箱館奉行所」)として蝦夷地の政治を担う

 

1867 徳川慶喜は政権を朝廷に戻し(「大政奉還」)、徳川幕府崩壊

 

1868 正月、京都に於いて、「錦の御旗」を掲げた薩摩長州連合軍と旧幕府軍が衝突(「鳥羽伏見の戦い」)
 5月、箱館奉行から明治政府の箱館裁判所総督へと事務引継ぎ( ⇒ 幕府による蝦夷地統治の中心であった五稜郭は、1864年6月の業務開始からわずか4年で役割を終えた)
 10月20日、3,000名ほどに膨れ上がった旧幕府軍は、開港場であり諸外国の領事館や商社も存在する箱館への上陸を避け、箱館から十里ほど北に位置する内浦湾(噴火湾)の鷲ノ木(現、森町)沖へ投錨、吹雪の中を上陸し、明治新政府箱館府(箱館裁判所から改称)がある五稜郭を目指して南下を開始
 10月22日、榎本武揚蝦夷渡航を前に明治新政府に対して、生活の糧を失った旧幕府家臣達の生活安定のための蝦夷地開拓の趣意嘆願書を箱館府へ提出しようとしたが、箱館府との間に戦闘開始。経験の豊富な旧幕府軍に対して迎撃する箱館府兵の抵抗は効果なく、敗報に接した箱館府は青森へ退避
 10月26日、旧幕府軍無人となった五稜郭を占拠。五稜郭旧幕府軍の本営となり、明治維新動乱の最後の舞台に
 11月5日、箱館を抑えた旧幕府軍は、明治新政府に与する松前藩に対して平和共存を訴えたが、松前藩は抵抗の動きを見せたため、土方歳三を長とする陸軍部隊を松前攻撃に派遣して、松前藩福山城を制圧、松前藩主一行は津軽へと脱出。この間、陸軍支援のために 松前へ向かった旗艦「開陽」が日本海の冬の風波によって江差沖で座礁沈没、さらにその救援に向かった軍艦「神速」も沈没するも、旧幕府軍蝦夷地から新政府の勢力を一時的に駆逐
 12月15日、旧幕府軍は、上等士官以上の者による入札で総裁以下の役職を選出、蝦夷地領有の宣言が為され、暫定的な軍政機構成立

 

1869 3月9日、蝦夷地へ向けて品川沖から艦隊が出航
 4月9日、蝦夷地への北上途中、宮古湾での旧幕府軍による「甲鉄」奪取のための奇襲作戦を撃退した新政府軍は、日本海側の乙部に上陸を開始、瞬く間に江差を奪還、三方向から箱館へ向かった
 5月11日、箱館五稜郭を残すのみとなった旧幕府軍に対して、新政府軍は総攻撃を開始。
 箱館山の裏側の断崖を登攀した奇襲部隊が箱館市街地を一気に奪還。
 箱館の北方山手からと箱館湾の海岸沿いには、軍艦からの艦砲射撃の支援を受けた新政府軍の陸軍本隊が進み、五稜郭に迫った。陸軍奉行並として土方歳三は、市街地奪還のために一隊を率いて五稜郭を出撃したが、市街地の境界を突破する際に銃撃を受けて絶命。
 旧幕府軍の海軍が全滅して後、新政府軍は軍艦を港内の奥深くへ進入させ、「甲鉄」の七十斤アームストロング砲による五稜郭への艦砲射撃を開始、旧幕府軍の本部に多くの被害を与え戦意を奪う一方で、箱館病院の医師・高松凌雲を仲介として降伏を勧告
 5月18日、五稜郭内に整列した旧幕府軍将兵の見送りを受けた榎本以下の幹部四名は、新政府軍の会議所へ赴き護送されていった。将兵武装解除された上、寺院などへ収容され、箱館周辺と北海道南部、渡島半島全域を半年間にわたって戦火に包んだ箱館戦争は、旧幕府軍で約800名、明治新政府軍で約300名の犠牲者を出して終結

 

1871 郭内の御役所庁舎は解体され、広場となった跡地は明治の陸軍の練兵場として使用

 

1872 榎本ら旧幕府軍の幹部は東京へ護送され投獄されたが、赦されて、多くは北海道開拓使への出仕を命じられた。榎本武揚は、開拓使を皮切りに明治政府の要職を歴任し大臣としても活躍、日本の発展に力を尽くしていくことに

 

1914 函館市民の請願を受けて、五稜郭は公園として一般開放され、5,000株の桜の苗木が植樹され、北海道でも有数の桜の名所として現在に至る

 

1922 国指定史跡

 

1952 「史跡のうち学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴たるもの」として、北海道では唯一の特別史跡に指定

 

1985 郭内の遺構調査開始

 

2010 庁舎全体の建築面積の3分の1で、当時と同じ場所、伝統工法、同じ材木を使用して御役所(奉行所)庁舎の高い精度で復元

 


<感想>
 1868年12月、上等士官以上の者による入札で、榎本武揚が総裁に選出され、暫定的な軍政機構が成立。
 1869年5月、日野の農家出身、新撰組副長⇒上記暫定機構の陸軍奉行並となった土方歳三が戦死。
 1871年、4年で役割を終えた五稜郭箱館奉行所が竣工からわずか7年で解体。
 2010年、140年の歳月を経て、当時と同じ工法で奉行所復元。
 様々な思いが詰まった五稜郭であった。

 

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