元証券マンが「あれっ」と思ったこと

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あれっ、今村均大将に見る日本人の尊厳?


今村均大将:人間の器量 】

 

 

 終戦の日が近い。以下は「人間の器量」(福田和也著、新潮社)からの一部抜粋。

 


  五、身を捧げる

 先の大戦はわが国の大敗に終わり、その結末に至るまでに陸、海の軍人が為したことは、批判を浴び続けています。けれどもまた、尊敬すべき人物がいたことも、事実でした。先年、『硫黄島からの手紙』で注目を集めた栗林忠道ノモンハンインパールといった敗北にも、自らの戦線を守りぬいた宮崎繁三郎、軍部独裁を批判し続けた石原莞爾など、尊敬、注目に値する人はいました。そのなかでも今村均大将は、もっとも高潔な人物と云えるでしょう。

 

 私は、今村がいてくれて良かった、こういう人がいてくれるおかげで、日本人の尊厳が守られたのだ、と時に泣きたい気持ちになる事があります。

 

 先のジャワ島攻略作戦、ラバウル防衛作戦に従事した今村は、戦後、オランダ、オーストラリア両国の軍事裁判にかけられました。オランダからの訴追は無罪になりましたが、オーストラリアの法廷は、十年の禁固刑とし、今村は巣鴨プリズンに送られます。

 

 巣鴨に収容された今村は、マッカーサーに直訴をしました。

 

 直訴と云っても、無罪を訴えたり、待遇の不満を申し立てたのではありません。

 

 まったく逆です。

 

 今村は、自分の部下たちが、マヌス島(現パプア・ニューギニア)の戦犯収容所で苦労しているのに、自分だけ日本にいる事はできない。どうか、自分をマヌス島で服役させて欲しいと云ったのです。

 

 さすがのマッカーサーも感動して、今村の希望を聞き入れました。

 

 それから今村は三年半にわたってマヌス島で服役したのです。

 


 覚えのない罪で死なねばならない部下たちに、今村は寄り添い、ともに苦しみ、ついには自殺を試みました。

 

 自殺は、毒を呑んだうえに、首を切るという周到なものですが、死ぬ事は出来ず、この事を今村はずっと恥じていました。

 

 昭和二十八年、マヌス島の収容所が閉鎖されたのに伴い、今村は残りの受刑者とともに日本に送られ、巣鴨で残りの刑期を過ごしました。

 

 この時期、すでに朝鮮戦争が終わっており、アメリカ軍の戦犯に対する姿勢は柔軟になり、外出も許されるようになっていたのですが、今村は刑務所から一歩も出ませんでした。

 

 昭和二十九年十一月十五日、今村は釈放され、世田谷の自宅に戻りました。

 

 けれど、自宅の門を潜らなかったのです。

 

 釈放以前から、妻に命じて作らせておいた三畳の小屋に入り、終生そこで暮らしました。

 

 そこまで、自分を制し続けた今村は、軍人として無能だったのでしょうか。

 

 まったくそうではありません。

 

 ジャワ島攻略作戦に際しては、九日間で十万余の、イギリス、オランダ連合軍を敗北に追い込んでいます。

 

 さらに軍政も立派でした。

 

 将来の独立を見越して、オランダに囚われていたスカルノなど独立運動指導者を釈放し、現地政府の重職に起用することで、統治経験を積ませています。今村時代のジャワはきわめて安定していて、現地民と軍の関係も良好でした。

 

 後に、今村が戦犯として逮捕された時、スカルノらが救出作戦をたてたほどです。

 

 この作戦は今村の謝絶により、中止になりました。

 

 ラバウルでは、早晩、本土との連絡が途絶えることを見越して、食料の自給自足体制を作り、全島に畑を作るとともに、アメリカ軍の爆撃に対抗するために地下要塞を建築しています。

 

 そのためラバウル島部隊は、終戦まで飢餓に陥らず、十一万余の将兵が無地に帰国できたのです。

 

 今村は、前線司令官としても卓越していました。

 

 にもかかわらず、今村は、戦後自らを幽閉するようにして暮らし、執筆や講演による印税などは、すべて戦犯の遺族たちに寄付しました。

 

 その廉直さ、気高さは、類のないものであり、また今日の私たちを励まし、勇気づけるものです。

 

 わざわざニューギニアで服役し、戦後も自らを罰しつづけた今村の存在は、日本人の誇りとすべきものではないでしょうか。

 

 今村は、中学校から士官学校に入りました。

 

 本当は高等学校に行きたかったのですが、裁判官だった父親が急死して、学費が捻出できなかったのです。

 

 通常、幼年学校から士官学校に進むのが、エリート・コースとされます。けれどまた、中学出身者は、幼年学校の出身者よりも世間を知っていて、優れた指揮官が多いとされています。硫黄島の栗林も中学出身でした。

 

 主流のドイツ語ではなく、英語を学んだため、イギリスやインドなど英語圏駐在武官生活を送り、イギリス人、アメリカ人の友人が多くいました。陸海軍人には珍しい、国際派と云うことが出来るでしょう。

 

 今村は、酷い夜尿症で、睡眠時間がよく取れず授業中、居眠りばかりしていたといいますが、成績はいつも一番でした。陸軍大学校でも主席で恩賜の軍刀を得ています。同期の東条英機は十一位でした。

 

 後の戦犯裁判では、日本の将軍が法廷で居眠りをすると、日本の威信に関わるというので、唐辛子を口に含んだり、短刀で足を突いたりしながら、必死で眠らないようにしたといいます。

 


<感想>
「今村がいてくれて良かった、こういう人がいてくれるおかげで、日本人の尊厳が守られたのだ」との著者の思い、全く同感である。

 

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