いきものがかりの水野良樹さんが、HIROBAの新公式サイトに、鷲田清一さんとの対談を掲載していた。
https://hirobaweb.com/washidakiyokazu_2/
以下は一部抜粋。(その3)
ひとは生きている”しるし”の集まり
水野:伺っていて思ったのは、僕らもいつも思うんですけど、目に見えないじゃないですか。音楽って。ものではないので。先生の前で「現象」という単語を使うのは勇気が要るんですけど。現象じゃないですか。だからこそ断片でいいというか。僕らはある順番でメロディーをつくって、地図を一旦つくって、「こういうものですよ」って提示はするんですけど。ただ、感動する主体っていうのは、聴き手なんですね。まぁ、僕らも演奏をしながら同時に聴き手でもあるんですけれど。音楽に対して、演奏をしながらも、その音楽を聴いている。
鷲田:ああ、なるほど。
水野:なので客席にいる方と、僕らって実は同じものを聴いていて。だから主格が僕らだけじゃない。シンプルに考えると、演奏しているから、主格は僕らなんじゃないかと思われがちなんですが、常に“聴いているひと”がそれぞれの頭のなかで想像して作品ができあがっていくものだと思うんです。
だから、もともとそこにある構成された“モノ”としての作品が、どれくらい大きいか小さいかとかって話ではなくて。常に音楽はみなさんの頭のなかで湧き上がるもので。あるひとにとっては、そのひとの人生を変えるような巨大なものになるかもしれないし、あるひとにとっては、日常のなかの些細なもので終わるかもしれない。そんなふうに個別の可変性が常に許されているのが音楽で。先生がおっしゃられるように断片とか、自由な捉え方ができることが僕は音楽の可能性だと思うんですけど。
鷲田:失恋の歌でも、「これは僕のことじゃない」と言えるから、逆にものすごく情感を込めて、自分が失恋真っ只中のどん底にいるかのように歌える。歌のおもしろいところってそういうところにもある気がします。
おとぎ話や民話なんかも結構しんみりしていて。お嫁に行っていじめられたこととか、子どもを失ったときのこととか、シビアな恨み言や悲しみを語るのに、飄々と「むかしむかし…」って語るじゃないですか。あれもやっぱり他人の話だという前置きがあるから、情感を込めて語られていく。ある地域で語られたことが、「こういうひとの話」というところまで普遍化して、隣の村でも語られるようになっていくと、やがて“昔話”になる。誰が言い出したのか、歌い出したのか知らない。
水野:詠み人知らずみたいな。
鷲田:そう。代々語り継がれる普遍的な物語として残る。歌ってきっとそういうところがある。本当の歌は100年後、誰が作ったか誰も知らないけれど、語り継がれていく。
水野:そこを目指したいんですよね。
鷲田:あぁ、目指したいんだ。
水野:目指したいですね。大胆過ぎるのかもしれないですけど。
<感想>
目に見えない音楽の主客は常に“聴いているひと”で、それぞれの頭のなかで想像して湧き上がり、自由な捉え方ができるという話に大いに納得。
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元証券マンが「あれっ」と思ったこと
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